今週は、先生が頼まれ事で、知人の大工仕事を手伝いに行っています。そんな中、ふらりと訪れた突然の訪問者。『やきものにさほど造詣深くはないのですが・・・』と前置きされていましたが、中々どうして、幅広い知識と経験、そして御自分の価値観をしっかりお持ちの方。訊けば御出身は岡山とのことで、備前焼も身近であった様子。ちょうど姫路から戻ったばかりで・・・というお話をしましたら、やはり懐かしさを感じて興味深い話をいくつかして下さいました。
『関西の方では、器に対するこだわりや思いが深いような気がする、同じものを食べるにも、どんな皿に盛るのか、どんなふうに出すのかというのをとても大事にしているのだ』、と。さすがに20年を数える今回の大陶器市でも、衰えることのないお客様の熱意を深く感じてきただけに、『そうだったのか・・・!』となんだか腑に落ちた感覚でした。
一過性のブームではない、生活感覚に裏打ちされた、というのか、文化としての器ファン、陶器ファンが多い、ような気がする・・・のは気のせいではなかったようです。
たまたま今回の陶器市の最終日、姫路のとある日本料理店で食事をしてきました。お店の大将が、南山焼の器を気に入って、何度も足を運んで下さったので、どんな風に使っていただいているのだろう、と軽い気持でした。片付けの作業を手伝ってくれた二人の女の子と、我が家の元気な娘たち、そして私と先生。何度も何度も、道行く人に訊ねながらようやく見つけたそのお店は、想像をはるかに超えて立派な構えで私たちは思わず足がすくみました。雨に降られた撤去作業の後では、お世辞にもきれいな格好とは言えず、あまりにも場違いで気おくれしてしまったのでした。
けれど、先生の顔を見て大将はにっこりと,うれしそうに迎えてくれました。席へ案内され和服の仲居さんが、注文を訊きに、個室の扉を開けるたび、ちびっ子ギャングの騒ぐのをハラハラドキドキなだめながら、気が気ではありませんでした。でも、そこに見覚えのある箸置をならべてもらうと不思議にほっとさせられました。
そしてその日に御買上げいただいたお皿たちの上に、お料理が次々と運ばれて来ると、それは明らかに、私たちが注文した以上の手厚いおもてなしでした。散りばめられた秋の木の葉や薬味の色のハーモニーに、大将の心尽くしが随所に感じられ、南山焼の器たちがこうして輝いて使ってもらえることに言い知れぬ感動を覚えたのでした。
お料理を前にして緊張気味の先生・・・
うにやわさび、あしらいなどがちりばめられた宝石のように・・・南山焼の豆皿
ふぐの薄造りの載ったお皿は、透けて見えるエメラルドグリーンの深い色が見どころ・・・
横道にそれたようですが、今日見えた、田辺さんとのお話の中で、『料理の値段、というのは、食材とそれを載せる器と、両方の値段だからね』という一節がとても印象に残りました。『客もそれを解って食べに来る。』なるほど、『いくら高価な食材といえど、載せている器がそれにふさわしくないぞんざいなものでは、もてなしとはいえない。』いろんな意味で納得、してしまったのでした。
高価な料亭のご馳走でも、毎日の過程のお惣菜でも作る人、よそう人の心尽くしと、食べる人、いただく人の感謝の気持がひとつになったときに、そこに漂う空気のようなものが通うのだな、と今日はしみじみ思ったのでした。そんな空気を作るお手伝いを、やきものを通してできることの幸せをあらためて感じています。
庭にやっと咲いた山リンドウ、
思いがけなくいろんなお話しをさせて頂き楽しいひと時でした。